エミー賞の歴史History of EMMY
1946-1960
1. TVの歴史の始まりと共に歩み出したエミー賞の黎明期
1930年代にニューメディアとして注目を浴びながら、第二次世界大戦によって進歩を妨げられたTV。だが終戦と共に、TV業界は堰(せき)を切るように急成長。そこで1946年、ロサンゼルスで生まれた業界団体がテレビ芸術科学アカデミー(ATAS=The Academy of Television Arts & Sciences)だ。業界誌の記者だったシド・キャッシドらは、映画界でアカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミー(AMPAS)を手本にATAS を創立し、3年後の1949年、前年度のTV番組を対象にした第1回エミー賞を開催する。1949年1月25日、ハリウッド・アスレチック・クラブで授賞式は開催。部門が6つしかない小さな式だったが、LA地区のみTV中継されたというのはTV界の賞ならではだ。なお、現在はメインのプライムタイム・エミー賞以外にも様々なエミー賞があるが、1974年にデイタイム(お昼の番組)のエミー賞が出来るまで、名称は只のエミー賞だった。
エミー賞は部門数を少しずつ増やしながら、1955年に開かれた第7回授賞式から、全国ネットでTV中継されるように。アカデミー賞の全国中継が始まったのが1953年のことだから、エミー賞は早いうちから年に一度の国民的イベントに成長していった。
この頃の受賞番組や受賞者だが、視聴率の高い・低いはほとんど関係なく、早いうちからTV番組を質の面から評価していた姿勢が伺え、エミー賞を価値あるものにしていった。
とはいえ、視聴率が高く、エミー賞で評価されて人気も高い番組もあった。日本でTV放送が始まったのが1953年だったこともあり、日本に輸出された番組は残念ながら少ないが、ルシル・ボール主演の名作コメディ「アイ・ラブ・ルーシー」は第5回と第6回、2年連続でコメディ・シリーズ作品賞を受賞。警察ドラマ「ドラグネット」が3度、ウエスタンの「ガンスモーク」と「マーベリック」がそれぞれドラマ・シリーズ作品賞を1度ずつ受賞した。
放送開始当初から国民的娯楽の王座である映画業界から、“電気紙芝居”と見下されたTVだが、TV受像機の普及にともない、映画の観客動員は減少するように。1950年代終盤には映画の都だったはずのハリウッドも、いよいよTVドラマの生産に乗り出す。
そして1954年、NBCネットワークは、画期的なカラーTV放送を開始。色彩を手に入れ、文字通り多彩でリアルな表現が可能になったTVは、続く1960年代、大きく飛躍する。
1946-1960年の受賞作品
| 年 | 最優秀TV映画賞 | 最優秀ドラマ番組 | ドラマ・シリーズ部門 | ||
|---|---|---|---|---|---|
| 作品賞 | 主演男優賞 | 主演女優賞 | |||
| 1949 | THE NECKLANE | ||||
| 1950 | THE LIFE OF RILEY | ||||
| 1951 | PULIZER PRIZE PLAYHOUSE | アラン・ヤング | ガートルード・バーグ | ||
| 1952 | STUDIO ONE | シド・シーザー | イモジン・コカ | ||
| 1953 | ROBERT MONTGOMERY PRESENTS | トーマス・ミッチェル | ヘレン・ヘイズ | ||
| 1954 | U.S. STEEL HOUR | ドナルド・オコナー (COLGATE COMEDY HOUR) |
イブ・アーデン (OUR MISS BROOKS) |
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| 1955 | U.S. STEEL HOUR | ダニー・トーマス (MAKE ROOM FOR DADDY) |
ロレッタ・ヤング (ロレッタ・ヤング・ショー) |
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| 1956 | PRODUCERS' SHOWCASE | フィル・シルバース (THE PHIL SILVERS SHOW) |
ルシル・ボール (アイ・ラブ・ルーシー) |
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| 1957 | ロバート・ヤング (パパは何でも知っている) |
ロレッタ・ヤング (ロレッタ・ヤング・ショー) |
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| 1958 | ガンスモーク | ロバート・ヤング (パパは何でも知っている) |
ジェーン・ワイアット (パパは何でも知っている) |
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| 1959 | レイモンド・バー (ペリー・メイスン) |
ロレッタ・ヤング (ロレッタ・ヤング・ショー) |
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| 1960 | プレイハウス90 | ロバート・スタック (アンタッチャブル) |
ジェーン・ワイアット (パパは何でも知っている) |
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